2011年11月14日月曜日

■男鹿のナマハゲは何者か

田村麻呂の大嶽丸の鬼退治を調べると、男鹿のナマハゲはどうなのか?





1,鬼ヶ城伝説

【引用】
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-4-1.htm

 世界遺産になった鬼ヶ城
  平成16年7月に、熊野古道や鬼ヶ城を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されたが、この鬼ヶ城の鬼も、実は『大竹丸』である。

『鬼ケ城伝説』
その昔、桓武天皇(737~806)のころ、この地に隠れて熊野の海を荒らし廻り、鬼と恐れられた海賊多娥丸(たがまる)、天皇の命を受けた坂上田村麻呂が征伐したという伝説が残っており、その伝説に基づいて鬼の岩屋と呼ばれていましたが、後に鬼ケ城といわれるようになりました。

  多娥丸(たがまる)となっているが、伊勢と熊野は伊勢路でつながっており、坂上田村麻呂に成敗されたとすることから、伊勢国で暴れたとされる「日本三大妖怪」の一人『大嶽丸』に間違いない。

  ここでは海賊とあるが、秋田県の鬼「なまはげ」と長崎県五島列島の久賀島の鬼は同一だと考えられる。そして、佐渡島の人々に鬼と恐れられた粛慎(みしはせ)の容貌は「なまはげ」そのものである。


2,粛慎は挹婁(ゆうろう)

  ツングース族の粛慎は紀元1世紀に挹婁(ゆうろう)と名を変えるが、中国の史籍に次のような記事がある。

『三国志魏書』挹婁伝
漢代(前漢)以来、扶余(ふよ)に臣従していたが、扶余の賦課が重いので、黄初年間(220年-226年)には、これに叛いた。扶余はこれを何度も討伐するが、人口は少ないけれど、場所が険しい山中で、隣国の人々も、その矢(毒矢)を畏れるほどで、兵(軍事力)では帰服させることができず、隣国はこれを患いとしている。

『後漢書』挹婁伝

彼らは気の向くままに船に乗って、巧みに略奪を働くので、隣國ではこれを畏れ、患うが、兵をもってしても服させることはできない。

  上記から、粛慎(みしはせ=挹婁)は、東アジア最古の海賊だったと思われる

扶余については別紙に記述したが、高句麗や百済の宗族でもあり、朝鮮半島の
平壌からアムール川までという広大な領地を有した大族である。その扶余ですら手に負えない彼らに、当時の倭人も略奪を受けたのだろう。




3,安東水軍
  鬼首の鬼達は、後に「安東水軍、伊予水軍、松浦水軍」となることから、海運にも優れていた事実が推察できる。また、大竹丸が陸奥の山中で隠遁していた訳ではなく、安倍水軍をもって都に近い伊勢国や紀伊国まで攻め上っていたとも思える。
  また、後世のアイヌはの名残だと思われる「毒矢」を交易品としている。

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4,ナマハゲは海賊?


福見の鬼について、久賀島(長崎県)からさっそく追加情報が届いた。
地元の方から伝説を聞き取り中のわたしのスナップショットから、最近の福見の様子まで、たくさんの写真が久賀島公式ページで公開された。
鬼取材をした福見の様子はここをクリック

さて、秋田のナマハゲと、五島・久賀島の鬼伝説。
東西互いに、遠く離れたところに伝わるコケコッコー型鬼伝説だが、
もう少し突っ込んで見ていくと、違いもある。
それは、「鬼の正体」に関する解釈。

秋田のナマハゲは、諸説ある中で、漂流したロシア人にルーツがある、ということはすでに見たとおりだ。
それでは五島・久賀島はどうか?
面白いことに、鬼とは「海賊」のこととあり、伝説が伝わる福見はその昔、もともとの「福建」から改名した地名であるという。ということは、その鬼こそ、中国、福建から渡って来た中国の海賊であるということになろうか?

ここで海流を見なければならない。沖縄から南西諸島を通って北上してくる海流は、九州の南で二手に分かれる。一方は太平洋岸をなめるように東へ走り、もう一方は東シナ海を北上して、日本海へと入り込む。

上図からもわかるとおり、海流は中国の福建をかすめるように通っている。
久賀島の鬼は、海賊であり、福建(福見)であるというが、この対馬海流はその伝説の正当性を無言のうちに裏付けているようでもある。
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5,粛慎人来着(みしはせびとらいちゃく)

 粛慎人は、やまとことばでは「みしはせびと」と読む。日本で最初に記録された外来の鬼で、『日本書紀』第十九の欽明紀(五四四)の頃に、次のように書かれている。
 五年十二月越の国言さく
 佐渡の島の北の御名部の碕岸に粛慎人あり
 一つ船舶に乗りて淹留る
 春夏は魚を捕って食に充つ
 彼の島の人
 人に非ずと言ひ亦鬼魅なりと言ひて敢て之に近づかず
 島の東
 禹武の邑の人
 椎子を採拾ひ熟し喫わにと欲して
 灰の裏に著いて炮る
 其皮甲化して二人となり
 火上に飛騰ること一尺余計
 時を経て相闘う
 邑人深く以て異しと為し
 取て庭に置く
 亦前の如く相闘ひて己まず
 人ありて占ひて云う
 是れ邑人必ず魃鬼の為に迷惑されんと
 久しからずして言の如く其の抄掠を被る
 是に於て粛慎人瀬河浦に移り就く
 浦の神厳に忌み人敢て近つかず渇して其の水を飲み死する者且に半ばならんとし
 骨巌岫に積む
 俗粛慎の隈と呼ぶ也

鬼と書かれてはいるが、民族学上では大陸の沿海州北部から、旧満州にかけて住んでいた狩猟民の、ツングース族とする説に定着しつつあり、古記には蝦夷ないしアイヌ説もみられる。
右記中の地名、「御名部」「禹武」「瀬河浦」がどこであるかには、諸説があって定まらないが、佐渡博物館編『図説・佐渡島』では、東は藻浦から西は橘海岸などが挙げられ、北片辺の馬場遺跡の発掘によって、石花川河口付近に上陸地が比定されたりしている。右記した欽明紀は、実録によったものではなく、それ以前の口碑伝承を、越の国の者が報告する形式で書かれている。それゆえ鬼魅や魃鬼が抄掠したとして、蛮族の暴力的行為をうけたことになってはいる点については、中国人が用いた漢字表記では、「粛」も「慎」もむしろ穏やかで、つつしみ深い意味があるので、他の個所の記述と比較しながら、真実を見極める必要がある。

【関連】馬場遺跡(ばんばいせき)・韃靼塚(だったんづか)
【執筆者】本間雅彦

(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
 

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